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カラタケ日記

派遣社員から契約社員になって9年経過。思いついたことを書いてます。

夜も眠れず、仕事も手に付かない不安な日々                      連帯保証で500万円の負債を抱え、多重債務に

サラ金相手の損害賠償請求事件
2008-06-23オーマイニュースに掲載された記事です。

 友人Aは、緊張した面持ちで原告席にいた。開廷前の簡易裁判所。訴訟代理人の司法書士と被告の双方の間を、書記官がせわしなく行き来している。提出された証拠書類を確認しているのだ。

 しばらくして裁判官が入廷、司法書士に対し、訴状の通りであることを確認した。訴状に対して、被告からは事前に反訴状が出されていた。被告が原告を逆に訴えたのである。裁判官もせわしない。ボソボソと早口で喋るため内容が聞き取りにくい。

 一市民にとっては非日常の裁判も、関係者にとっては毎日の仕事なのだ。事務的に手早く処理されていく。傍聴人席は5人。私のほか、次の裁判の関係者もいた。

返済毎月20万円でクビ回らず

 消費者金融を相手に訴訟を起こした損害賠償請求事件の第1回口頭弁論。原告は友人のA。被告は、九州地方で事業展開するC社だ。

 九州に暮らす友人Aが、家業の経営不振に加え、連帯保証人になった約束手形が不渡りになった。このため債務返済の目的で消費者金融を利用して、返済のためにまた新たな消費者金融から借り入れるという典型的な多重債務のパターンにはまった。

 年29%超の高金利を10年以上払い続け、返済額は最終的に計12社・毎月約20万円にまで膨らんでいた。返済前日になると、夜も眠れず、仕事が手につかない日々を過ごした。
 
 しかし昨年、多重債務者を救う会を訪れ、紹介された司法書士が進めた債務整理によって、大半の債権者との間で和解が成立した。

 しかし、C社のみが和解に応じないことから、訴訟に踏み切ったのだ。事件を審理するのは、九州にある簡易裁判所(簡易裁判所=民事事件の訴訟価額が140万円以下の請求事件について第1審の裁判権を持つ)。

バブル崩壊時、父は宅地と会社を売却したが…

 1980年に大学を卒業したAは、すぐに、父の経営する会社に勤務した。当時は会社経営も順調に推移していたが、1994年ごろから経営難に陥った。

 それに伴い、銀行の融資枠が縮小され、融資を断られた。Aの父親は経営継続を模索し、やむをえず消費者金融を利用した。1995年8月ごろ、Aは消費者金融計8社から借り入れし、会社経営と、自らの生活資金に充てていた。その後、返済と借り入れの繰り返しではあったが、何とかやりくりしていた。

 1997年6月、Aは友人だった会社経営者を信用して、約束手形(500万円)の連帯保証人になった。すると当の本人は逃避、手形は不渡りとなり、連帯保証人のAが負債を負う結果となった。Aは父親に相談。その結果、父親所有の宅地を売却し、その代金で約束手形の債務の全額と、父の会社の債務の一部を返済した。

 そして、父親はそれを機に会社も売却。それによって会社関連の負債は完済できた。

 しかしA個人の負債はほとんど残ったままだった。多数ある毎月のサラ金の返済で生活が苦しくなり、1998年にB・Eの2社から新規に借り入れして返済に当てた。

 この時期には、Aは計9社から借り入れしていて月々の返済額は約16万円だった。これ以降は、借り入れと返済の繰り返しで、次第に生活費も不足していった。

「枠」をやりくりしながら

 1999年2月、E社から30万円を借り入れた。この30万円は、返済した分については新たに新規で借り入れできる「融資枠」である、つまり30万円を借りて2万円まで返せば、返済中の28万円に加え、新たに2万円借りることができると知らされ、1999年10月、同社の営業所に契約した。E社への返済は銀行振込を利用した。しかし、これに対して同社からは、領収書の送付発行は1度もなかったという。

 貸金業規制法は、利息制限法〔元本10万円未満の場合、年20%。10万円以上100万円未満、年18%。100万円以上、年15%〕を超える利息について、法律で定められた事項の記載のある領収書を交付することを義務付けているので、29.2%の金利を設定していたE社はこの点で違法となる。

 1999年10月から2003年2月までの約4年間は、返済によってE社の融資枠が空くと、その差額借入で再び契約した。

 もっとも、その後も生活費の不足や急な出費などがあり、Aは新たに2社の消費者金融から計100万円を借り入れた。金利が高く、元金がなかなか減らないため、月々の返済額は約20万円に達していた。

 支払いが遅れることがあり、Aは実の父親や、妻の親に立て替えてもらうことも多くなっていった。

債権譲渡の証拠なく騙し取られた20万円


 Aは借入元金が少しでも減ると、差額借り入れする方法を続け、2005年5月、再度E社から借り入れする目的でに同社の営業所を訪れると、移転していた。

 移転先に行くと、E社の看板は無く、かかっていたのはC社の看板だった。女性事務員に「ファイナンスのE社はここですか」と尋ねると、「“ここでいい”と言われた」とAはいう。

まるで債権譲渡があったかのような、スムーズな客対応

 Aはこの時点で、「E社がC社に社名変更したのだ」と思い込んだ。40万円を借りたAは契約書にサインした。すると、そこからE社に残っていた借金約20万円が差し引かれた残りの約20万円だけがAに手渡された。

 その時の説明は、「(E社で貸し付けた)現在の借金を差し引いて残金を渡す」というもの。その際の事務処理は女性担当者がすべて1人で行った。制服、契約書の記入方法、備品など、Aが知っているE社の事務所内の様子とほとんど変わらない状態だったとされる。
 
 つまり、C社はAに対し、E社の債務を引き継いだ形で営業していると説明し、それを信じたAに対し、C社から新規で借りる予定40万円から、E社への債務分を差し引いて、約20万円を支払ったのである。

 しかし、実際は貸金業者E社の登録は、2005年2月に抹消されていた。C社はE社から債権譲渡を受けていないにも関わらず、E社の債権分として約20万円をAから騙し取ったと、原告側(A側)は訴えている。

 その後もAは、他社を含め、借り入れと返済を繰り返し、再び2006年1月にC社で50万円の切替を行った。その時の事務処理は、2005年5月と特別変わらなかったという。

たった2日遅れで、催告状!?

 2006年11月ごろ、Aから債権者への返済が全般的に遅れるようになっていた。するとC社(返済日は毎月15日)から11月17日付で、催告状が送られてきた。

 催告状の内容は、残元金と利息および遅延利息損害金を支払うよう記載され、これ以上遅れると訴訟を起こし、財産を差し押さえ、強制執行するとの通告があった。

 身内には、すでに多額の借金で迷惑をかけていたため相談できず、一括返済はとうてい無理な状況だったため夜も眠れず、仕事も手につかない不安な日々が続いた。

 いつまでもこんな生活を送っていたら一生返済できないのではないかと悩んでいたら、妻からの情報で多重債務者を救う会の存在を知り、相談したところT司法書士事務所を紹介された。

 T司法書士が交渉した結果、十数社の債権者のほとんどと和解が成立し、過払い金が返還された。そのなかで、C社だけが応じないとの報告を受けた。

 C社は、Aに手渡した金額が約20万円だったにもかかわらず40万円貸し付けたと主張し、返済日の遅れに伴う延滞金と元金の返済を求めてきた。そして、E社とC社は別会社であるという理由から原告Aの提出した訴状に対して反訴状を提出した。よって、同裁判所で同時に審理中である。

過払い債権を認識する

 2006年11月の催告状にあったC社からの請求金額は、E社とC社の債務額を合わせたものだった。C社はE社とは別会社と主張しているが、Aに貸し付けるときは、E社への債務分は差し引き、催告するときは、E社への債務分を足し合わせていた。

 2005年5月の時点で利息制限法に引きなおすと、E社との取引は、Aが約60万円の過払い債権を有していたことになる。Aは、借入開始当時、過払い金返還請求権を有していることを知らなかった。請求権を認知していれば、新たな借入を行うこともなかったと主張している。
 
 C社について、T司法書士は「他にも同様の訴訟があり、悪質」と指摘する。

 過払い金の請求訴訟は、消費者保護の観点からグレーゾーン金利を事実上否定した2006年1月の最高裁判決などを受け、その後、全国で頻発している。

 それに伴い金融庁は、貸金業規制法施行規則(内閣府令)の改正を行うことを表明した。ただ、グレーゾーン金利の撤廃については未定としている。

グレーゾーン金利とは、利息制限法に定める上限金利は超えるが、出資法に定める上限金利(29.2%)には満たない金利のこと。

 利息制限法によると、利息の契約は、同法で定められた利率を超える超過部分は無効とされている。貸金業者、特に消費者金融(サラ金)業者の多くは、このグレーゾーン金利帯で金銭を貸し出す。ただし、最近では特定調停などの裁判所で行う手続きや、弁護士、司法書士が介入している債務整理については、利息制限法の金利で引き直し計算を行っている。

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赤木智宏さんの論文読みました~ 「まだ負けたわけじゃない」と呟いている

[日雇い派遣] ブログ村キーワード
2007-12-28オーマイニュースに投稿し、掲載された記事です。

 私は、希望をもつことができない。派遣社員として働いて生活したこの2年間の実感だ。

 知人の仕事を手伝う目的で、約20年間勤めた会社を辞めたが、うまく軌道に乗せることができないため、収入を得る目的で一時的に派遣に登録し、働いた。それまで派遣の存在は知っていたが、その実態はまったく知らなかった。何故これほど、経済的に不安定な状況の中で働かされ、追いつめられていかなければならないのか。

 サラリーマンの時、通勤途中の車窓から見た倉庫群の1画で、営業に行った隣のビルで、日々、肉体と精神を消耗させながら黙々と働く人達がいることに気付くことはなかった。認識はしていたが、私には関係がなかった。それぞれの職業だと思っていた。私が専門職を選んだように、彼らは倉庫作業を自ら選んでいるのだろう、ぐらいの理解でしかなかった。

赤木論文に揺さぶられる

 赤木智宏さんの存在を、12月16日付のオーマイニュースの記事で初めて知った私は、その『論座』(2007年1月号、朝日新聞社)に掲載された論文「『丸山眞男』ひっぱたきたい。31歳フリーター。希望は戦争」を読んで、大筋で賛同した。派遣の現状を体験した私は、赤木さんの展開する論旨に揺さぶられた。


 私は、派遣の立場で単純労働の仕事を、この先一生続けていかなければならないとしたら、とても希望をもつことができない。現段階では、経済的に不安定な状況に置かれているものの、一方で、実現の可能性はどうであれ、事業としての成功を目指す本業を持っているという希望(野望)があるからこそ、身体的にツライ派遣の仕事を一時的に続けることができる。

 その本業が挫折したら、50歳を超えた私は年齢的、能力的にも再就職は難しいだろう。赤木さんの論調では、過去に正社員として凡庸な生活を得るという恩恵を受けた私は、リストラ対象者と同様、同情に値しない存在でもある。正社員を経験していない、不幸な赤木さんたちに比べれば、一時的にせよ、安定した収入を得、結婚して家庭を持ち、人並みと思われる生活を体験することができたからだ。

 そのため、赤木さんが挙げる、人間としての尊厳を獲得できる環境が与えられた多数派に属する1人だろう。

戦争を希望する親はいない


 赤木さんは、正規雇用層と非正規雇用層とが簡便に入れ替わることのできる状況が創出される戦争を希望し、社会の流動性を高めたいと主張する。だが、2人の子供を持つ親としては、戦争は容認できない。単純ではあるが、我が子が死ぬかもしれない戦争を希望する親はいないだろう。


 でも過去の私はどうだったのかと振り返ると、赤木さんと変わらない自分がいたことに気づく。20代後半まで、今でいうフリーターをしていた私は、当時ブームになった、『新約聖書』の「ヨハネの黙示録」に記された部分を、世界の終末戦争とする解釈が、実現するのを真剣に期待した。

 若さゆえの夢に浮かれ、それに破れた私は、現実の世界に対して、将来に対して、絶望していた。その手の本を読みあさり、『聖書』を買い、世の終わりを検証しようとした。世界の終わりを望み、新たな救世主が現れ、懸命に働くことで、平等で平和な世界が構築されると妄想した。現実を受け入れることを拒み、自身が救われるために、世界が1度、滅ぶことを願った。

 赤木さんほどの整然とした論理は持ち合わせていなかったが、社会の中で居場所のないフリーターとしての悲哀を体感した結果、そうした社会への報復の念によって、世界の破滅を希望した点で、大きく差異はないと考える。

 でも今、私は戦争を望まない。今後、本業の事業化に失敗し、派遣の仕事を続けなければならない状況になったとしてもだ。格差社会が是正されず、貧困層に分類されたとしても、現実の世界の中で、働くことでしか私の生活は成り立たない。ただ単に、戦争を想定することができないと言い換えた方が正確なのかもしれない。

 赤木さんの掲げる戦争は、正社員と非正規社員との間で行われる階層間の戦いの延長線上にあるとされる。その過程で、正社員の平和な家庭が破壊され、貧困層が新たなチャンスを掴むことができるという発想だ。

 彼らは現状で幸せな生活を送る人達が、不幸になることを望んでいる。替わってその地位を獲得することでしか、自身が幸せになれる手段がないと言い切る。それほど切羽詰った状態にあるということを、どれほどの正社員が気付いているだろうか。

 コネクションを使えば、有利に就職活動を行えるのは今も昔も変わらない。コネのないフリーター当時の私は、零細を含め数十社の会社を回り、就職活動した。その結果、20人規模の会社ではあるが、正社員になれた。

 前記したように、何とか人並みの暮らしができた。当時は、派遣法が整備されていなかったため、正社員雇用がごく普通であった。しかし、大手企業の場合、中途採用は皆無だったと記憶している。新卒時に就職しない場合、全うな暮らしからのドロップアウトをも意味した。

 それでも当時は、私のような中途半端な存在の人間が社会の1員として、潜り込める余地があったということだろう。それを、「ゆとり」と表現するか、整備過程にある「不備な部分」とするかについては、現状の硬直化しつつある格差社会を基点として振り返ると、答えは明らかだ。

安定した社会は、不安定な階層を溶出している


 安定支配層は、自身の地位をより強固にする目的のためだけに腐心する。それが世界の牽引力になる。利益配分はそれに参加した人間に対して、その貢献度によって決められ、支払われる。

 20年間は、私も貢献したと思われる対価を当然のように受け取った。正社員であった過去と比較すると、派遣社員の待遇の差に戸惑う。率直な話、かつての場所にもう1度戻りたいと、切実に願うこともある。

 1000円に満たない時給は、人としての誇りを見失ってしまいかねない金額だ。単純作業であったとしも、その労働に見合った対価ではあり得ないことを訴えたい。

 世界が目指す安定した社会は、一方で不安定な階層を溶出している。誰もが幸せになる道を、我々は選んでいない。多数派ではあるが、平和な家庭の数には制限がある。それを支えるための敷石となり、土台となるための貧しい人達の存在が不可欠となる。

 個人がその能力によって仕事をしていると前提すると、誰もがそのポジションで幸せになるべきだと思う。不安定な社会の中では、精神的余裕が失われ、平和な家庭の維持が難しくなる。正社員もまた、リストラの脅威の中、不安定な精神状態にあるともいえよう。

 派遣の現場にいると、閉塞感を覚え、混沌した社会状況の只中にいることを実感する。工場で、倉庫内で働くだけでは、平和な家庭が築けないからだ。結婚して、子供を育てるための充分な収入を得ることができないからだ。

派遣で働く道しかないとしても


 それでも私は、より良い制度の実現を期待しながら、戦争のない現状の世界で働くことを望みたい。派遣で働く道しかないとしてもだ。

 希望をもつことができないとしても、「負けたわけじゃない」と考える。勝ったわけでもないが、一市民として働いて、何とか生活していけると考える。幸いなことに家族があり、友人がいる。不満は尽きないが、まだ負けてない。この文言でひと息つける。

 何に負けていないかは、自分に問わない。得体のしれない何かと、確かに闘っている。この先、勝つことはないかもしれないが、とにかく、まだ負けていない、と呟く。

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立ち止まり、目で追った~ 末期がんの母を看取った後で

2007-09-18 オーマイニュースに投稿し、掲載された記事です。一部、加筆しました。

 「家族を大事にね」

 亡くなる1週間前、週末の休みを利用して様子を見に行った私が帰る際、母が言った言葉である。それが母との最後だった。

  ◇

 厳しい残暑が続いていた。見舞客もまばらな白い2階建て病棟が、強い西日の照り返しで、まばゆく映った。「必ず治る」と繰り返し言っていた。余命告知はしていなかった。自身の命の時間を知っているのだろうかと、九州から帰る飛行機の中で自問した。

 2002年9月のある日、「大したことないけど」と前置きし、検診で胃がんが見つかったと母が知らせてきた。早期がんで見つかって幸いだった。紹介してもらった大きな病院で来月、手術する予定だという。

 手術の前日、東京から帰省した私は、担当医に症状の説明を受けた。胃のほか肝臓に薄い影が見えるが、大きな問題ではなさそうだ。はっきりとしたことは手術してみないと分からないと話した。狭心症の持病を持つ母は、先にそちらの手術を希望したが、早期がんであれば狭心症は後でも良いのでは、という医師の言葉もあり、私の判断でがん手術を優先してもらった。約2時間の予定で、午前10時頃に始まった手術が終わったのは、6時間を経過した午後4時過ぎだった。

 結果は進行がんで管内胆管がんにかかっていた。胃がんとの因果関係はないという。すでに肝臓、腹膜全般に転移しており、肝臓の2分の1、腹膜の一部を切除、胃の切除は3分の2だった。医師の診断は余命3カ月~半年だった。病期(進行度)としては、最終段階の「IV期・初期」だった。父は信じなかった。「医者の言うことはさっぱり分からん」とへそを曲げた。

 手術担当医師から引き継いだ30歳代の内科医師と、がん治療に関する話し合いを行った。治療法としては、進行を遅らせるための化学療法(抗がん剤)と放射線療法があるが、現段階では、管内胆管がんに対する有効な治療方法は確立されていない。治癒の見込みはないことを宣告された。積極的治療として位置づけられる抗がん剤治療だが、効果不明の上、激しい副作用が懸念されることから選択せず、痛みなどの症状を緩和する治療を行うよう要望した。度々、見舞いに訪れてくれた親せきの内科医も、担当医と会った上で、抗がん剤治療の選択は薦めなかった。

 年末に歩けるまでに体力が回復した母は、正月を自宅で過ごした。やつれた母は、

「元気になったら東京にも遊びに行くからね」

と帰省した我々家族に何度も話した。胆管がんの告知はしていなかった。

  ◇

 しばらくして母は、車で約1時間かかる手術を受けた病院に再入院した。父と再入院後から滞在してくれた叔母は毎週、病院に通った。その後、地元の病院で治療できるよう担当医に相談し、自宅から車で5分の個人病院に転院した。

 寝台車に同乗し付き添ってくれた担当医は、東京では、皇族の治療に当たっていたという地元出身の院長に、母の病状と治療に関する引き継ぎをし、抗がん剤治療は行わないことを確認した。

 5月、出張で新潟にいた日。抗がん剤を投与したらしいというメールが見舞いに行ってくれた親せきの医師から届いた。すぐに、手術を行った病院の担当医に電話した。抗がん剤治療は行わないよう申し送りしてくれたことを再度確認。翌日、母が入院している病院に行き、院長に面会、担当医が抗がん剤治療を行わないことを伝えた点と、抗がん剤投与の有無を確認した。認めた院長に投与の理由を尋ねたら、明確な答えはなかった。私は、淡々と話した。転院を申し出た。

 一瞬、院長の顔色が変わり、私から顔を背けたが、すぐに「かまいませんよ」と、“医師の顔”で答えた。

  ◇

 母は、隣町の総合病院に転院した。余命1~3カ月の末期の厳しい状態だった。総合病院の担当医に、抗がん剤治療は行わない旨を申し入れた際、「ほかに良い方法はありますか」と尋ねた。やはり、「有効な抗がん剤治療は確立されていない」と言った。

 最後まで、強い痛みがなかった母は、それから約半年後の10月に亡くなった。

 経過を知らされていない母は、最後まで個人病院の院長を信頼していた。どうして転院したのか、私には直接問いかけることはなかったが、叔母に聞いたという。狭心症の手術についても、どうして後回しにしたのかと私の判断を計りかねる様子だったらしい。

  ◇

 1年後、仕事からの帰り、東京駅の乗り換え通路を歩いていると、母にそっくりの女性を見かけた。元気な頃の母に似ていて、見覚えのある濃紫の洋服を着ていた。そんなはずはないと思いながらも、立ち止まり、目で追った。
 
 涙が、こぼれそうになった。

 もう一度、母に会いたいと願った。


 


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Author:カラタケ
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